君も特別

行間の深読み

『君が見せてくれた未来はここで終わるけれど、どうせあの日君に逢っていなけりゃこの人生なんてなかったのさ。』

 

 

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ミュージカルフランケンシュタイン2020

2020年1月8日~1月30日 @日生劇場
2020年2月14日~2月16日 @愛知芸術劇場大ホール
2020年2月20日~2月24日 @梅田芸術劇場メインホール

https://www.tohostage.com/frankenstein/index.html

 

 



はいせーーーーーのっ!
クマおいし~~~~!!!!!!





これはわたしが見たハッピーエンディングミュージカルミュージカルフランケンシュタインとわたしのファイナルアンサー"かきかず”および和樹アンリが歌う♪君の夢の中でへのなんかしらの情のあれそれです。




 
なんとわたしのファイナルアンサー:かきかず、DVDには収録されない。
序盤からいきなり悲報である。


甘えん坊で寂しがり屋なくせに強がりな柿澤ビクターと、兄として母としてパートナーとしてビクターを包み込む和樹アンリの、一見甘えたい⇔甘やかしたいが一致しているようにみえる両者だが、彼らは圧倒的に言葉が足らなかった。同じ夢を見れていない、否、言葉を介して同じ夢を共有できていない。誰よりもお互いがお互いのこと理解している《つもり》で甘え甘えられ与え受け取る、限りなく兄弟に近い存在。そして依存していることも依存されていることも無自覚、故に互いの気持ちを理解しあうことなく互いを誰よりも求め続けた2人は最期まですれ違う。

ビクターは「自分は君がいないと生きていけない」ことをアンリは「理解している」と思っていた。説得すればきっとわかってくれると。だからそもそも"それ”がアンリに伝わっていないなんてビクターはこれっぽちも考えていやしない。でもアンリは、やっと見つけたこれ以上ない最高の死に場所を前に晴れ晴れと恍惚と盲目に心の底から「死んでも僕は幸せ」と笑う。ビクターはアンリが自分の為に自ら進んで身代わりとなって死んだことを理解していないし、アンリはビクターがそれを受け入れていないことを理解していない。そう、最期まで。

アンリはビクターが自分の首を使って自分たちの夢を実現させることを疑いもしない。ビクターにとってその疑いのない瞳は呪いでしかないことを知らない。どうしてって、考えたことすらないからだ。アンリはビクターの為にこの身を投じることで彼の生命創造という夢を果たすことができ、ましてや自分はその夢の中で彼の中で生きつづけることが出来るなんてこんな幸せなことはこれ以上ないと”思い込んでいる”。ビクターにとって生命創造を成し遂げる以前に自分がどれほど彼に必要不可欠な存在であるかを理解出来ぬまま。それほどまでにアンリにとってビクターはやっと出逢えた、出逢ってしまった、ただ一つの人生だった。



ここで脳直メタ発言をするのならば、ビクター自体の依存の吸引力は柿澤氏の生まれ持った性質上のものなので相手がどんなアンリ像をもってきたとしてもビクターのアンリへの依存は発生してしまっていたと思う。じゃあどうしてわたしは小西アンリではなく和樹アンリとの物語にファイナルアンサーを出したかというと、彼らがお互いに向けたベクトルの大きさの違いだ。

柿澤ビクターと小西アンリ、つまりかきこには、共依存
どのペアよりも友の文字がふさわしい。たくさんの言葉を交わし、同じ方向を向き、同じ夢を見ていた。そしてきっととびきり人間らしく運命に振り回された2人。
ビクターはアンリが自分の前か消えようとしていることを受け入れられずにどうして・・・と繰り返しながらも抑えきれない1%の「首が欲しい」という欲求が生まれている自身への拒絶に喉をカラカラさせながら叫ぶ。アンリは彼には自分が傍にいないといけないこともそして自分にとって彼の存在が必要であることもわかっている。だからこそ自分たちの夢を実現するために精一杯の最善策を打つ。同じ強さでお互いを求め合う彼らは、2人が出会ったときから決まっていた運命に図らずしも双方合意の上で進む。それがたまたま地獄と呼ぶしかない類のものだっただけなのだ。

かきかずは、《両方依存》
弟のように甘え求める柿澤ビクターと、兄のように包み込み与える和樹アンリ。血の匂いであふれかえる死の墓場で自身の太陽に出逢ってしまったアンリの陶酔と、生涯のパートナーを手に入れてしまった神に憧れる人間であるビクターのそれからの変化の速度は歴然だった。言葉を深く交わすことなく空気感や波長、色、温度がなんとなくで同調し噛み合ってしまった同じ強さで求め合ってると思い込んでいる2人は、お互いの依存がすれ違っていることを知らない。アンリはビクターを見つめながらその先の自分たちの夢が実現した未来への興奮に、その実現の為には自分の首が必要不可欠であることの優越に、瞳に輝きを宿したまま『一緒に夢見れるら死んでも僕は幸せ』と笑う。ビクターもきっと同じ未来を見ていると思い込んでいるから、彼は、笑う。太陽に憧れる月に自身が飲み込まれる瞬間、初めてビクターはこのちぐはぐな今を知る。


これは本当にめちゃめちゃ私情ではあるのだけれど、わたしは和樹アンリの「憧れる対象への依存を超えた自己中心的な崇拝」という感覚を知っているので、君夢で笑う彼へ、彼とは反対に自身の太陽とする対象に己の全てを投げ打つことを完遂出来なかった自分への感情移入とは違う投影と残像と懺悔で毎回絵にかいたような泣き方をしてしまった。きっと羨ましかったんだろうな。と、今となっては思う。どういう結末になったとしても恍惚とした表情で運命を喜んで受け入れられる奇跡に出逢えていることが、憧れという無責任な感情の狂気が、心底羨ましかったんだろう。



人殺しと民衆に罵られているアンリの表情が脳裏から離れない。彼にその声は届いていない。彼もそれを望んでいると思い込んでいるから、死んだ後の自分の首をもってビクターとの夢を叶えた未来を見つめる彼は、心の底から幸せそうだった。





『笑ってよ』

『運命だと思って』





和樹アンリの君夢は、ビクターへの呪いだ。






ここまで余白しかない作品をいまのわたしは他に知らない。組み合わせ次第で物語が変わり、なにより幕が上がるたびに板の上で生まれるものが毎公演違ったりする。あれほど愛おしいと感じるキャラクターたちが同じ見た目で同じこと話していても中身が別人としか思えないような思考で動く恐怖を体験したことがある?わたしはあきこにを初めて観た時あまりのことに初めて恐ろしさで涙が出た。同じ筋書きで同じ服装で同じ台詞を喋ったって自分のファイナルアンサーを出したキャストが演じる彼ら以外はなにもかもが違うものになる。だからその日自身が観たものがミュージカルフランケンシュタインなのだ。ましてやたとえ同じ組み合わせにファイナルアンサーを出した人であってもその目で観た日が違えば解釈も変わってしまう。「〇月〇日の△△(組み合わせ)は、」が感想の主語になるのだ。この日の彼らは2人で神様に挑戦状を叩きつけて完全勝利した。だったり、この日の彼は狂いたくても狂えず狂っている。だったり様々だ。

だからこうして"わたし”が観た彼らを残す。記録として残されたその日の彼らに上書きされないように。



和樹アンリの君夢における太陽と月が初めてやっとお互いの依存のベクトルを知る描写が本当に本当にたまらなく大好きでこれが残せたら悔いはないのだけれど、ひとつだけ追記するなのであれば、ステファン邸で「ドイツの女性は見た目より太っているから、脱がせてがっかりするなよ☆」とウォルターに言葉をかけるビクターと、それを聞いて“おもわず笑ってしまった”アンリが慌てて口を塞ぎ誤魔化すまでの流れが彼ら2人の関係性を顕著に表しているシーンに毎回(「それはてめえ(アンリ)の入れ知恵だろ~~~~~~!!!!」)と床をゴロゴロ転がるのめちゃめちゃ楽しかったな・・・・・・・・・・・・・・









最後に。
大楽カテコで和樹が「僕たちがいくら再演をしたいと言っても出来ない作品がほとんどです。そんななかこのフランケンシュタインはいままでの東宝作品のなかでも再演を希望する声が圧倒的に一番多かったらしく、異例のはやさで再演をすることが出来ました。本当に皆さまのおかげでこうして板の上に立つことができています。(ニュアンス)」と話してくれた言葉があまりに嬉しくて見上げたメインホールの照明の眩しさを今でも鮮明に思い出す。
実はフランケン、3年前の初演も観劇していた。でも再演ほどあの頃のわたしには刺さらなかった。それはその日観たペアが中川×加藤だったからなのかはわからない、でもこうして再び幕が上がったタイミングで改めて”彼ら”に今のわたしが出逢えたことは本当に幸せだなと思う。



全42公演お疲れ様でした。
かきかずあきこに映像CD発売コンサート再々演等々待ってます!!!!!!

 



 



 

 

 







まるで奇跡だ
君に出逢った瞬間
夢見るその瞳に
僕は恋をした


激しく魅了する
哲学 信念 情熱
輝き


今まで生きた人生の
すべ
てを疑うような
眩しい君は太陽
自分が恥ずかしく思えたよ

たぶんこれはあの日
定められた運命

今僕にはわかる
その時がやってきたと


泣いちゃだめだ 約束しろ
僕に何が起きても夢諦めないと


一緒に夢見るなら
死んでも後悔しない

すべてを捨てても君の
夢の中で生きられるなら


君が見せてくれた未来は
ここで終わるけれど

どうせあの日君に逢っていなけりゃ
この人生なんてなかったのさ

一緒に夢見れるなら
死んでも僕は幸せ

すべてを捨てても君の
夢の中で生きられるなら


勇気のなかった
過去を消し去って

新たな世界描く君の
夢の中で
生きよう



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『阿呆みたいかもとは思うよ。でも君のようにしっかりとした分別があって阿呆みたいなことも出来る人に僕は会ったことがないんだ。それが君を愛する理由ではないけれど、そういうところも愛してる。』

 

 

 

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Being at home with Claude ~クロードと一緒に~
2015年4月17日~4月23日 @シアタートラム

Being at home with Claude -クロードと一緒に-

 

 

1967年 カナダ・モントリオール。裁判長の執務室。
殺人事件の自首をしてきた「彼」は、苛立ちながら刑事の質問に、面倒くさそうに答えている。男娼を生業としている少年=「彼」に対し、明らかに軽蔑した態度で取り調べを行う刑事。部屋の外には大勢のマスコミ。
被害者は、少年と肉体関係があった大学生。
インテリと思われる被害者が、なぜ、こんな安っぽい男娼を家に出入りさせていたか判らない、などと口汚く罵る刑事は、取り調べ時間の長さに対して、十分な調書を作れていない状況に苛立ちを隠せずにいる。
殺害後の足取りの確認に始まり、どのように二人が出会ったか、どのように被害者の部屋を訪れていたのか、不貞腐れた言動でいながらも包み隠さず告白していた「彼」が、言葉を濁すのが、殺害の動機。
順調だったという二人の関係を、なぜ「彼」は殺害という形でENDにしたのか。密室を舞台に、「彼」と刑事の濃厚な会話から紡ぎ出される「真実」とは。

 

 

 

 

 

傾斜のある舞台を三方向から囲うように設置された座席。

息をするのもためらうほどの静寂。

ゆっくりと暗くなる照明、比例するように少しずつ大きくなる音楽。

一人ずつ舞台奥中央から登場し、モノローグのように各々が動き、そして止まる。

始まりを告げるように鳴り響くゴングの音。

堰を切ったように流れ出す言葉たち。

 

 

 

 

この作品の面白いところは、怒涛の台詞の渦で時系列やなにが真実なのかが一見難解に思えるけどその根源は実はシンプルなことだと思う。その根源、それは、『イーヴは“彼”を愛していた。』イーヴは”彼”を愛し、”彼”もきっとイーヴを愛していた。2人は間違いなくその時の全部で愛し合っていた。文字にするとなんて呆気ないんだろう。でもイーヴはある日、「今ある幸せとこれから先の幸せ」よりも「この幸せがなくなってしまう未来」を想像してしまい、そして恐れた。


「幸せが終わる恐れ」

きっと誰もが恐れることだと思う。けれどイーヴは誰よりもその終わりを恐れた。それは彼の生い立ち、家族構成、男娼として生きるいま、つまり彼がイーヴとたらしめる全てによって。いつかなくなってしまう未来ならその絶望を味わう前に終わらせたい、でも自分が死ぬんじゃ意味が無い。どうしてって、それでもあの人の人生は自分を置いて進んでしまうのだから。それだけは耐えられなかった。だから自分の手で終止符を打つことにした。

私がイーヴを愛おしいと感じるのは、“彼”を殺した後自分も後を追わなかったこと。きっとそんなことすら頭になかったんだろうなあ。だってイーヴの頭の中を占めていることは、“彼”の幸せ、ただそれだけなんだもの。イーヴは“彼”を殺すこと自体が目的じゃない。ましてや計画的なものでもない。愛する人を殺すことって、たとえそれに憎しみやエゴが含まれていたとしても私は最大級の愛がさせることだと思う。“彼”が幸せなら自分も幸せ、逆も然り。すごくシンプル。そしてとびきり綺麗。

そもそも私はイーヴの吐き出す言葉のどれをとっても意味のあるものだとしか捉えられなかったからイーヴのことを理解出来ない刑事のことがいまも理解出来ないでいる。きっと刑事は「言葉」によって理解しようとしたんだろう。それはもう至極当然。言葉が全てで、言葉がないと真実か嘘かの形ですら伝わらないんだから。
でも、イーヴの動機は、「感情」だ。イーヴは「自分たちがどれだけ愛し合っていた」かを知ってほしかった。殺した理由をただ「愛しているから」という単体だけでは表せない。口から出る文字はとても顕著だ。「愛してる」と言葉にするのはとても簡単なこと。けれどそれだけじゃ足らないしそれだけじゃ表しきれない。だからイーヴは自分がどれだけクロードを愛していたかをいくつもの言葉を連ねて重ねて伝える。そこにこそ意味が生まれるから。

 

 

 

 

どうしても忘れられない日がある。

 

 2015年4月22日

どこでそうなったかはわからない。いつのまにかイーヴの右眉あたりが切れていた。結果をいえば事故、あってはならないこと。美談にするつもりもこれっぽちもない。でも、あの日のあの時の彼は、本当に本当にとびきり綺麗だった。


クライマックスの独白シーン。
眉上から流れた血が瞳を覆い顎を伝って、地面に落ちる。
まるで泣いているようだった。


手を伸ばせば届きそうな距離にいるのに今にも消えてしまいそうで、でも瞳から流れる涙は鮮明に赤く、口からは絶え間ない“彼”への愛それのみ。あまりにも痛々しくて、あまりに美しかった。

 

 

正直この舞台をきちんとした言葉で表すのは不可能だと思う。どの単語を用いてもどれも不適切な気がしてならない。だから「どうしても陳腐な言葉になる。腹立つ!」って台詞がもう本当に心臓が痛くなるくらいめちゃめちゃわかってしまう。私もこれだけ文字を重ねても、どれだけ私がこの作品がイーヴが大切なのかを言い表せてるとは到底思えない。でもイーヴは必死に気持ちを感情を言語化しようといろんな言葉を紡いだ。そんな風にそこまでして伝えたかったこと、それが「“彼”を愛していたこと」ただそれだけなんて、こんな愛おしいことってあるのかな。

怒涛の台詞の洪水に飲み込まれながら必死にイーヴの心を追って追って、辿り着いた先は痛々しいまでの“彼”への愛を吐露する姿で、心臓をつかまれたような瞬間はいっそ死んでしまいたくなるほど苦しくて生々しい。
いまだにこれがなんの感情かは分からない。ただ、イーヴが“彼”の幸せをひたすらに願ったように、私もイーヴの幸せをなによりも願っている。

 

この愛を「殺人罪」の一言で片付けてしまうのは、あまりにも寂しいよ。

 

 

 

 

『クロードと一緒に』の初演は2014年。主演は相馬圭祐稲葉友ダブルキャスト。再演、再々演の2015、2016年は共に松田凌がイーヴを演じている。
私は松田凌のイーヴしか知らないから比較なんてできないけど、きっと役者が変わればまた違う世界を見せてくれるはず。想像するだけで身震いする。でも、もしこの作品がこの先も続くのなら、私はずっと松田凌にイーヴ演じ続けてほしいと思う。再々演で久しぶりに彼のイーヴに会った、真底彼に嫉妬した。もうイーヴは一生あなたのものじゃないかって思ってしまった。べつに彼じゃないイーヴを受け入れられないってことじゃないし、違う役者のイーヴにだってもちろん会ってみたい。それでも、いまのところイーヴは彼のものになっているし、私も永遠にそうであってほしいと願ってしまう。

 

ameblo.jp

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2019年に再び再演が予定されてる。
どうか観れる環境にいる人全員に観てほしい。
イーヴがもがきながら吐き出す愛をあの空間で感じてほしい。

 

 

 

待ち遠しいなあ…早くイーヴ会いたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

『僕は誰とも話したくなかった。それはいい映画を見たあとみたいな、その映画の感想を口にするまでははっきり覚えてる、でも口に出したら、いつもそう。そう、これはいい映画だけじゃない。あの最悪な映像だっておんなじ。』

 

『僕がしなくちゃいけないことは世界中で僕を幸せにしてくれるのは何かを問うことで、つまりそれはあの人の喜びは僕の喜びってことだった。あの人が幸せなら僕も幸せ。逆もおんなじ。』

 

『阿呆みたいかもとは思うよ。でも君のようにしっかりとした分別があって阿呆みたいなことも出来る人に僕は会ったことがないんだ。それが君を愛する理由ではないけれど、そういうところも愛してる。』

 

『僕たちはパンケーキみたいにひっくり返った』

 

『何言ってるか分かってる?分かってんのか?分かんないよな?言い表す言葉が無いんだ、じゃあどうする?言葉は感覚を表現してくれるんだろ?学校で習ったんだろ?言葉が全てで、全ての物には名前がある。僕はブルターニュがどこにあるかさえ分からなかったんだ!』

 

『あの人は綺麗だった。あの人は喉を抑えなかった。だって僕を抱きしめていたから。 ただ願ってる。あの人が僕が見た光景と同じものを見ていないようにって、ただ願ってる。あの人はこれから何が起こるか知らないままに生まれてきたんだって、コインの裏側を知らないままに。 』

 

『あの人は喜びの中で死んだんだ。 自分の人生が薄汚れていくのを見ることなく。

…… あの人を、愛してる。』

 

『だって考えてたことっていえば……腐っちゃうって。………諦めたよ。』

 

 

 

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